最終章:分かれ道
時は流れ、この苦労教が当たり前となった世界で、ある日のことでした。
年老いた田郎が、夕暮れの田んぼで一人佇んでおりました。腰は曲がり、手は荒れ、顔には深い皺が刻まれています。長年の苦手な仕事で、すっかり疲れ果ててしまったのです。
「わしは...何をしてきたのだろう」
ふと、昔のことを思い出しました。神々から力を授かったばかりの頃、田仕事がどんなに楽しかったか。土の匂いを嗅ぐだけで心が躍り、一日中働いても疲れるどころか、ますます元気になっていたあの頃を。
「あの時は...あの時は確かに、皆が幸せだった」
田郎の息子の田次郎が、とぼとぼと歩いてきました。彼もまた、父と同じように苦手なことばかりをして、疲れ切った顔をしています。
「お父さん、もう帰りましょう。今日も魚獲りの練習があるんです」
田郎は息子を見つめました。田次郎もまた、田仕事が大好きだったのです。小さい頃、田んぼで遊んでいる時の輝くような笑顔を、田郎は忘れることができませんでした。
「田次郎よ」田郎は静かに言いました。「お前は本当は、田仕事が好きではないのか?」
田次郎は驚いたような顔をしました。「そ、そんなこと...好きなことをするのは悪いことだと...」
「誰が決めたのだ、そんなことを」
田郎は決心しました。次の日から、彼は再び田仕事に専念することにしたのです。村人たちは眉をひそめましたが、田郎は気にしませんでした。
不思議なことに、田郎が好きな田仕事に戻ると、見る見るうちに元気になりました。作物の出来も良くなり、余った米を売ったお金で、家族の暮らしも豊かになったのです。
田次郎も、恐る恐る父の真似をして田仕事を始めました。すると、あの懐かしい喜びが蘇ってきたのです。親子は久しぶりに、本当の笑顔を見せるようになりました。
一方、海太の家では違う出来事が起こっておりました。海太の息子、海次郎は密かに海に憧れを抱いていたのです。父が昔、楽しそうに魚を獲っていた頃の話を、祖母から聞いていたからです。
ある日、海次郎はこっそりと海辺に出かけました。舟に乗ると、なぜか心が躍りました。網を投げると、まるで魚の方から寄ってくるかのように、大漁だったのです。
しかし、それを知った海太は激怒しました。
「何をしているのだ!好きなことをするなど、堕落の始まりだ!お前には立派な人間になってもらいたいのだ!明日からもっと苦手な機織りの練習を増やすぞ!」
海次郎は泣きながら謝りましたが、心の奥底では海への憧れを捨てることができませんでした。父の目を盗んでは、こっそりと海に出かけ続けたのです。
さらに複雑だったのは、綾女の家でした。綾女の娘の綾子は、母が昔作っていた美しい布に憧れていました。密かに機織りを練習すると、指先から魔法が流れ出すように、見事な模様が織り上がったのです。
「お母さん、私、機織りがしたい」
しかし綾女は、娘の言葉に激しく反対しました。
「何を言っているの!女の子が好きなことをするなんて、はしたない!ましてや、それでお金を稼ごうなんて...お父さんが何と言うか!」
綾子は「お父さんは反対するだろうか」と思い悩みました。夫に相談する前から、綾女は「きっと反対される」と決めつけていたのです。
「女の子は苦労してこそ美しいのよ。楽をしてはいけません」
綾女は自分でも機織りが恋しくて仕方がなかったのですが、「夫に何と言われるか分からない」と思うと、口に出すことができませんでした。実際には夫に相談してもいないのに、「反対されるに決まっている」と勝手に諦めてしまったのです。
村の女性たちの多くが、同じような状況でした。本当は好きなことがあるのに、「夫が反対するだろう」「家族に迷惑をかけるだろう」と、実際に相談することもなく、自分で諦めてしまうのです。
村の大多数の人々は、田郎親子を見て言いました。
「あの人たちは堕落した」
「楽な道に逃げている」
「真の努力を知らない」
「特に女性が好きなことをするなど、もってのほかだ」
彼らは今でも、苦手なことに苦労し続けています。子供たちにも同じことを教え続けています。「苦労こそが美徳」「好きなことは悪いこと」「特に女性は慎ましくしていなさい」と。
高天原では、神々が複雑な心境でこの様子をご覧になっておりました。
「一部の者は気づいてくれたのう」
「しかし、多くの者はまだ...特に女性たちが自分で壁を作ってしまっているようじゃ」
「仕方がないことじゃ。人間は自分で気づかねばならないのだから」
そして今でも、この世界には様々な生き方があります。
自分の好きで得意なことを活かして、楽しく豊かに暮らしている人々。
苦手なことに苦労し続けることを美徳として、辛く貧しい生活を送りながらも「これが正しい」と信じている人々。
本当はやりたいことがあるのに、周りの反対に遭いながらも、密かにその道を歩もうとしている人々。
そして、やりたいことがあるのに、実際に相談もせずに「きっと反対される」と思い込んで、自分で諦めてしまう人々。
あなたは、どの道を選びますか?
―おしまい―
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語に出てくる人たちの中に、どこかご自身と重なる方はいらっしゃいましたか。
好きなことを後回しにしている方。
誰にも相談しないまま、「きっと反対される」と諦めている方。
好きで得意なことは、神様からの贈り物。
それを活かすかどうかは、あなたが決めていいのです。