大学院在籍時からこれまで、様々な大学で「哲学」を教える講義を行ってきました。学生に講義をするなか、哲学は単なる知識ではなく、自分の考えを整理したり、自分を客観視することのできる重要な学問であり、学生のみならず、今まさに社会のなかで生きるすべての人たちに必要なものであると考えるようになりました。社会人の方々、専業主婦(主夫)の方々、定年退職された方々をはじめ、なんらかのかたちで学生を卒業し、学びの場から遠のいてしまった方々に、哲学を勉強することの楽しさ、哲学的思考のノウハウをお伝えする場を提供したいと考え「ソトのガクエン」を設立しました。
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哲学とは真理の探究です。しかし、そもそも絶対に疑いえない真理など果たしてあるのでしょうか。もしも、私たちが「真理」だと思っているものが、実は真理でなかったとしたら、真理を探究するあらゆる学問は無意味なものとなってしまいます。
フランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes 1596-1650)は、こうした問題意識から、絶対に疑いえない真理を追い求めるべく、一切の真理を疑ってかかります。「この現実世界すらも夢かもしれない」「数学的な真理も誤りかもしれない」 こうした疑い(懐疑)の果てに、デカルトは果たして真理に到達することができるのでしょうか。今回は、デカルトが問題視したスコラ哲学についてお話しするとともに、デカルトの著作『省察』(1637)「第一省察」を読み、デカルトが方法として採用した「方法的懐疑」とは何かについて学び、デカルト哲学の問題意識を追体験しましょう。
◎講座で用いる資料はこちらで準備しお渡しいたします。
◎参考文献:『省察』『世界の名著 22 デカルト』(中央公論社)所収
どんなことでも疑えるので、もはや真理なんて存在しないのでは?しかし、デカルトはここである真理を発見することになります。「方法的懐疑」の先に見いだされたのは、以外にも「私」という存在でした。しかし、こうした「私」もまた、方法的懐疑の議論を前提にすると、身体を持っていることも疑わしいですし、そもそもこの現実世界が夢かもしれないのですから、一般的な意味での「私」であるということはできません。はたしてデカルトは、「私」をなんであると考えたのか?そして、デカルト哲学は、その後の哲学にどのようなインパクトを与えたのでしょうか。今回は、『省察』「第二省察」を参照しながら、デカルトが見つけた真理について、それがなぜ近代哲学の始点であると言えるのかについて考えてみましょう。
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◎参考文献:『省察』『世界の名著 22 デカルト』(中央公論社)所収
そもそも人間なるものは、なんの知識も持たず、まったくまっさらな状態で生まれてくるのか(赤ちゃんを見ているとそんな気がします)、あるいは、ある程度何かしらの知識がインストールされた状態で生まれてくるのでしょうか。こうした「生得観念」をめぐる問題は、イギリスの哲学者ジョン・ロックや、デイヴィッド・ヒュームに代表される経験論と、フランスの哲学者デカルトに代表される大陸合理論との対立点となります。なぜ経験論は大陸合理論の生得観念を批判する必要があったのでしょうか。今回は、経験論と合理論の対立から、人間はいかにして何かを認識しうるのかという問題に、近代の哲学がどのようにアプローチしたのかを見ていきましょう。
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ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724-1804)の哲学は、大陸合理論とイギリス経験論それぞれの良いところをひとつにまとめ、両者を総合したものとして理解することができます。人間の認識は、必ず経験を必要としますが、すべてが経験に還元されてしまうのではなく、人間に本来的に備わった時間と空間、一定の概念を通してはじめて可能となります。カントの哲学は、哲学史全体を通しても、理解するのが困難であるとされます。今回は、合理論と経験論の問題点をどうカントが乗り越えたのかという観点から、カント哲学のエッセンスを理解しましょう。はたして、カントは、いかにして両者を総合し、あらたな哲学を作り上げたのでしょうか。
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