世の中の喧騒から一旦離れて、純粋な問いに向き合いませんか?
大学院在籍時からこれまで、様々な大学で「哲学」を教える講義を行ってきました。学生に講義をするなか、哲学は単なる知識ではなく、自分の考えを整理したり、自分を客観視することのできる重要な学問であり、学生のみならず、今まさに社会のなかで生きるすべての人たちに必要なものであると考えるようになりました。社会人の方々、専業主婦(主夫)の方々、定年退職された方々をはじめ、なんらかのかたちで学生を卒業し、学びの場から遠のいてしまった方々に、哲学を勉強することの楽しさ、哲学的思考のノウハウをお伝えする場を提供したいと考え「ソトのガクエン」を設立しました。
【経...
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「タイパ」や「コスパ」が求められ、「役に立つか否か」の効率主義だけが唯一の尺度となった現代社会において、哲学には何の社会的有用性もないのでしょうか? 目先の利益や利便性という意味では、その通りかもしれません。しかし、だからこそ哲学にしかないできないこと、哲学に固有の意義があります。
今回は、古代ギリシアの哲学者ディオゲネスのエピソードを紹介し、哲学の意義が何なのかについて、あらためて皆さんと考えてみましょう。
【主な論点】
・哲学は社会的有用性がないからこそ自由である?
・古代ギリシアの哲学者ディオゲネスが現代に投げかける問い
・哲学を学ぶとは、人間の思考の型・パターンを学ぶことである。
今回は、いよいよ哲学が誕生する場面に立ち合います。
西洋哲学の源流にある古代ギリシア哲学が立てた「万物の始原とは何か?」という問いから、そもそも「存在するとはどういうことなのか?」という存在論への飛躍を辿りましょう。つねに生成消滅し、変化し続けるこの世界の根底には何があるのか? 「イデア」(プラトン)と「実体」(アリストテレス)が対立するドラマを追いながら、物事の「本質」を捉えようとする「思考の型」を学びます。
さらに、プラトンとアリストテレスの思考の型が、いかにキリスト教世界に影響を与え、さらに私たちの思考にも影響をもたらしているのかを理解しましょう。
【主な論点】
・「万物のアルケーとは何か?」から「あるとは何か?」という存在の問いへ
・究極的に存在するものとは何なのか?(プラトンのイデア論とアリストテレスの実体論の対立)
・ギリシア哲学はどのようにキリスト教に組み込まれたのか。
究極的に存在するもの、究極的に存在する「神」を探究していた哲学は、近代において、存在や神を「いかにして認識するのか」「認識することができるのか」という問いへと劇的に変化します。そして、認識の中心に発見されるのは「人間」という存在です。
あらゆる前提を徹底的に疑い抜く「方法的懐疑」の末に、「私」という存在を発見したデカルト。認識する「私」、すなわち人間が、自らの主観的な枠組みを通して認識可能な世界を作り上げていることを明らかにしたカントの哲学。
「客観的で正しい」と思い込んでいる世界が、いかに人間の認識の枠組みやバイアスによって形作られているのかを明らかにした近代哲学を学び、私と世界の関係を根本から問い直してみましょう。
【主な論点】
・デカルトの方法的懐疑から「我あり(コギト)」という真理の発見へ
・人間の認識はいかにして可能なのか?(カントの超越論哲学)
・近代主義的人間像の誕生
近代哲学が発見し、近代という時代と共に作り上げられていった「理性的で自律した道徳的存在」という人間像。現代哲学に共通の問題意識は、こうした人間という存在、すなわち、近代主義的人間像を痛烈に批判することにあります。
人間は、近代哲学が想定するような、自らの意思で判断し行動しているのではなく、それに先立つ、構造や権力関係によっていかに生み出されているのかを現代哲学は暴露します。
最終回では、近代主義的人間像を解体した先に、現代思想はどこに向かっていくのか、未来の哲学の可能性について皆さんとともに考えてみましょう。
【主な論点】
・現代哲学は近代主義的人間像の欺瞞性を告発する
・言語学モデルから構造・権力論へ
・現代哲学はこれからどこへ向かうのか?